「日本に帰れない」から「日本に帰らない」へ

お題「#この1年の変化」

 

昨年の3月17日に、軍の動員もかけての物々しいロックダウンが始まり、それから一年になろうとしている。
いつくかのサリサリストアには、夜間の外出や飲酒や集会の禁止、それに違反・抵抗した者は拘束・科料する、という掲示がなされ、戒厳令とはこうしたものかと震え上がったものだが、フィリピンの熱しやすく冷めやすいといった気質によるものか、何の号令も無しに徐々に緩くなり、現在はほどほどのところに落ち着いている。
市場へ入るための通行証(Pass slip)も初めの頃は、連番管理されて各村への割当枠があったのか、村役場へそれを取りに行くと今日も市場へ行くの? と訊かれたりしていたが、近頃はシリアルナンバーの所も空欄で、日を空けずにPass slipを貰いに行っても何も言われることは無い。
まぁそれでも、学校はまだ閉鎖のまま(10月に再開のはずが、変異株の発生でお流れに)、子供と高齢者は市場への入場不可、全ての市民は他市の市場への入場不可、葬送は小規模なものに、県境を跨ぐ移動は陰性証明書が必要、といったような少なからぬ影響が続いている。

市場へのアクセスが悪くなったことで、沿道のあちこちには露店(Talipapa)が開かれ、民家はサリサリに、サリサリは野菜商に、それぞれ「昇格」して乱立している。
日本と同様、飲食店が一番に槍玉に挙げられ、閉店の憂き目に遭ったが、ナイトマーケット(夕方から市場の外周で開かれる主に持ち帰りの飲食店)も禁止になったことで、民家から張り出してきたような路傍の飲食店も増加。
こうした光景を見て、20年くらい時間が巻き戻ったみたいだ、と思ったが、よく考えてみると「20年前のフィリピン」なんて私は知らないのだから、その辺りがどうなのかはよくわからない。ただ、以前より ゆっくりと時間が流れているというふうには感じる。
ビデオケ(出張・貸出のカラオケ機材一式)なんかも夜9時頃まで酷い歌声が響き渡っていることがしばしばだったが、今ではそれを耳にするのは めっきり少なくなった。

 


 

さて、現在はコロナ禍のもと、日比間の往来は難しくなっている。可能ではあるのだが、いくつもの手続き・書類が必須であり、移動にかかる経費も増している(首都圏までバスで400ペソだったものが個人でタクシーを使って3000ペソかかるという話だ)
そもそも私はSRRV(特別退職者居住ビザ)が昨年10月に期限が切れ、パスポートの方も今年1月で有効年月日を満了してしまっているので、それをまず正常化しないことには何の手続きもできない。
というかこれは紛れもない不法滞在であると思うのだが(注;いま調べたところ、パスポートの方は期限が切れても特に罰則は無いよう)違法だからといって邦人が拘束されたとか、日本に送還されたとかという話は聞かない。それだったら「困窮邦人」という括りは発生しないものな。
ちなみにビザ切れの場合は500ペソ/月のペナルティ(2018年当時)。昨年9月にID 更新をしたいのだがというメールをPRA(SRRVを管轄している機関)に送っている私は、PRAの都合でビザ切れの状態に置かれているわけで、それでもペナルティの支払いはしないといけないのだろうか?
ともあれ、この状態で暮らしていても誰にも咎められないということらしい。日本に於いては、時々「強制送還」のニュースを聞いた気もするが、金の無い外国人を追い払うだけの財政的ゆとりの有無の差、ということか。

 

コロナとは直接の関係はないが、私は日本に帰るというのがどうも億劫になってきている。首都圏の渋滞のため、バスに6時間くらい毎回缶詰めになり、格安航空会社を利用しているせいで真夜中のおかしな時間に空港に居ないといけない(もっとも、今はコロナの影響で欠航が続いており、かなり割高で正規の航空会社を利用することになるだろう)
日本に帰ってすることといえば、地元で友人に会い、大阪で食品や書籍を買うといったことで、これらも十分魅力的ではあるのだが、スケジュールを組んで、便に送れないように行動するというのが、南国ボケした頭と体では、どうにも面倒に感じてしまうのだ。
以前記したとおり、現在の手持ちで健康面に問題が起こらなければ21ヶ月 日本に帰らず暮らせていけるわけだ。もしもペソが尽きそうになったら、個人経営のパン工場で250ペソ/日で三食・部屋付き、といった所を抑えてあるし、炎天下だが工事現場なら400〜500ペソ貰うことも可能だ。いずれもこの一年、村での生活の比重を少し増やしたお陰での紹介だ。他に、一年目に知り合ったフィリピン人の男性から週に何度か国道沿いの野菜店でバイトをしないか、オファーが来ている。
これらが他の仕事と違うのは、IDカードを要求されない、といった点だ。全くの新規の仕事ではバイオデータ(簡素な履歴書)、IDカードのコピー、ポリスクリアランス(無犯罪証明書)が要り、その時点で問題が出てくる可能性がある。
といっても外国人がAEP(外国人労働許可)無しに働くこと自体が法に適っていないのだけれど、特に地方ではそうした法律はあってないようなものだ。

 

ここ最近は村での売り上げは下降気味ではあるけれど 週2、3回は村へ行き、調理・販売を続けている。夕方の販売が終わると浜にある知人の小屋近くの長椅子か地引網の漁船に置いてある網の上で寝る。今は乾季なので、毎晩が雲ひとつない満天の星空であり、リゾート感満載だ。

翌日は未明から、漁に出たり、漁から戻ったりする船を引っ張る手伝いをする。

f:id:taippii:20210301071027j:plain

網にかかった少し古くなったり蟹に齧られたりした魚は売り物にならないので、手伝った人数でそれを等分する。

f:id:taippii:20210301072856j:plain

特に5時頃なんかは手伝う人が少ないので取り分が多くなり狙い目である。こうして毎回片手〜両掌くらいの魚を得る。10秒ほどのアルバイトで魚を50ペソ分くらい貰えるのでおいしいバイトである。


手に入れた魚で 村でカレーを作って売ることもあれば 、

f:id:taippii:20210226151313j:plain

男の子二人は余程おいしかったということなのだろう、お小遣いの前借りか、それぞれ家に帰ってお金を持ってきて2、3回おかわりしていた。女の子の方は自宅のパンシット(春雨の焼きそば)と引き替えに4回おかわり

f:id:taippii:20210226154137j:plain

私の昼食の分を残して完売。右上の黄色いのは未熟マンゴーの種。マンゴーは道端で拾える。インドなどでは乾燥・粉末にしたものをカレーに入れる

 

畑に帰って調理することもある。

f:id:taippii:20210301103019j:plain

f:id:taippii:20210301122100j:plain

後者の方は、畑で野菜がどんどん大きくなるので、食事のたびにその野菜と水や調味料を追加して入れ、2日間くらいは同じメニューでいける。それを食べ切ると市場へ買い出しに行って、また村へ、といういいサイクルができあがってきている。

家賃の方も2000ペソから300ペソへと大幅な削減に成功し、片道の航空費9000ペソLCCの場合)、往復なら60ヶ月分の家賃に相当する額を投じてまで帰国したいだろうか、などと相対的に考えてしまう。

というわけで、コロナ禍による「日本に帰れない」、から コロナ禍が明けても「日本へ帰らない」がここ一年の変化だ。

万一、当ブログの更新が途絶えたときには、「あぁかわいそうに、とうとうネット店へ通うお金も無くなったのか」と思って頂いて構わない。