ついに日本帰国が目前に

今週のお題「パイナップル」

 

少し昔になるが、デルモンテからだったか、トマトジュースにパイナップルを混ぜた飲料が出てたことがあった。今は無くなってしまったが なかなか爽快な味で、よく買っていたのを覚えている。
フィリピンは常夏の国なので、街角の至る所で大きな氷を浮かべたジューススタンドが見られる。ココナッツ、メロン、チョコレートなど色々な味があるがパイナップル味もある。そこに細かく切ったトマトを入れると…、トマトの食感も合わさり、すごくおいしいのである。
私がやり始めても、またあの頭のおかしな東洋人が変わったことをし始めたぞ、となるので、間にフィリピン人をかます必要があるが…。
さてお題をサクッと消化したところで本題に入っていこう(いつからこのスタイルになったのだろう…)。

 

 


 


2022年6月から公設市場のナイトマーケットに場所を移して続けていた私の露店だが、2023年6月22日を最後に休業となり、現在も営業再開の目処は立っていない。休業に至った理由は単純明快で、取得が求められている役場の営業許可証を取ることができないでいるためだ。私が外国籍者であるため、まず申請そのものが認められていない。これは代理人というか、代わりのBOSSを立てればクリアできることではあるので、借金漬けにした件のピーナ氏に、「営業が差し止められた。収入が途絶えてしまうので代わりに営業許可を取ってくるか、帰国への不足分10000ペソをボンバイ(インド人の金貸し)から借りてでも一括で払うか、選んでくれないか」と迫った。初めは営業許可を取るようなことを言っていたが、2017年のときと同様に、自身が忙しいからとか、職員である知人を通して頼んでいるから、とか言って遅々として進まず、そのうち何か致命的にネックな点でも見つかったのか(仮に逮捕歴があっても関係ないはずで、私には見当もつかない)、「取得するのにたくさんお金がかかる」、という、私が全部出す、と言っているにも拘らず、全く意味の分からない理由で、10000ペソを支払う方向に舵を変えた。ボンバイに借りればすぐに済むはずが、それを指摘しても、支払いを一ヶ月先に指定してきた。その間に隣の市に居るというボーイフレンドの所に逃げるか、何かまた別の理由でも捻り出して先延ばしする算段でも立てているのだろう。
ナイトマーケットの営業を、帰国費用の捻出のため、と役場職員の警告を無視して強行することもできたのだろうが、警告を出してきたその役場の上級職員というのが、コロナ以前も含め、2度に渡って私に500ペソ札*1を手渡してくれ(1回目は、私は貧乏じゃないと断りを入れたが結局くれた。2回目は帰国のための一切の費用を除くと、虫歯の治療費が発生したこともあって、銀行預金も底をつくくらいだったので大変助かった)、さらにプラザ(大教会前の広場)での開業当初には、27センチの大判お好み焼きを一枚全部買い上げて、立ち見の子どもたちに振る舞ったりしてくれた、いわば恩人に当たる人であり、ナイトマーケットの営業にあたっても、私の事情を誰かから聞いて知っていたのだろう、これまで営業許可が無いのを、目を瞑ってくれていたのである。そうした許可をくれている人がダメだと言っているのであり、上からの指令があったのか、この人が音頭を取って発令したのかはわからないが、ナイトマーケットの他の店全てが許可を取得しているのに、外国人の私だけがなぜ見逃してもらっているのだ、となるはずで、”恩人”の顔を潰さないために出店は自粛したのである。

さて、以上のように収入の途が絶たれてしまったのだが、ナイトマーケットの以前は、自宅で夕方に料理を作って売っていたので、それに戻るだけで収入がゼロになるわけではない。

スクウォッターエリア感のよく出てる自宅周辺。
映っているのは日本昔話の自在鉤をヒントにした(?)吊り炉。
燃焼に必要な空気が障害なく取り込めるので、通常使われる七輪式より優れている。



そして、本当に金がないならば、コロナ中であっても手を尽くして帰国すればよかったのであって、そうでないということはプラザやナイトマーケットでの営業そのものが、この機に帰国費用を稼ぐという名目で、フィリピンの飲食業界に食い込もう、というオプショナルなものだったのである。真の目的は、業界に参入することによって、日本人である私の料理が、どう受け入れられる(または受け入れられない)か見ることであったり、ナイトマーケットの各店の参入や撤退の変遷を定点観測することであったり、フィリピン人の衛生観念を見ることであったり、さらには、親日層や富裕層と知り合うことだったのである。
なーんて威勢のいいことを言っているが、一度は余剰金が尽きかけたことがある以上、この論法は後づけ、ということになる。それとも雨季などで不振に陥っても長期的に見れば十分な収益をあげられる見通しを持って開業したのだったろうか? まぁ時々でも2枚売れれば、貯金は増えていく計算だったような気がするが。

ともあれ、”元の”村の自宅での営業となった。初めの方は ナイトマーケットで腕を磨いての凱旋だったわけで、お好み焼きの方はキャベツの高騰により作れなかったが、しばしば二番手メニューとして出していた つけ麺をはじめ、ドライカレーやチャーハンなど、日替わりメニューで人気を博した。しかし一週間以上続く大型台風の影響、ウータン支払いやマナーの悪い子の有期出入り禁止、女の子の離反(他の子と仲良くすると嫉妬して数日来てくれない)などで、最近は売上が停滞気味である。

一方、2022年11月の現金・スマホ・他一式の盗難に際して訪れた裁判所から始まる借金取り立ての方は返済ペースに波はあるものの、ここまではまずまず順調に進んでいた。しかし、ナイトマーケットの閉業に伴っての10000ペソ一括で寄越せ、としたのが良くなかったらしく、月々の1000ペソも払ってくれなくなってしまい、そうなってから2ヶ月になる。裁判所へ再び行って拘置所送りにするという手段も残っているがそれで私にお金が入るわけではない。
改めて計算してみると、現状の為替レートが大きく崩れない限りは、パスポートの再取得、IDの更新料3年分、格安航空会社のチケット代などは、現在の手持ち資金で全て支払える具合であった。

しかし、つい最近になって重大な見落としがあるのに気がついた。更新遅延分の罰則金の存在である。イミグレーション(移民局)発行の観光ビザの場合は一月遅れるごとに500ペソが課される。我がPRA(フィリピン退職者庁)は観光省の傘下であるがイミグレに準じた罰金が課されるであろう。私がSRRV(特別退職者居住ビザ)を申請した際も、更新が遅れたらペナルティはありますか? との問いに、Yesとの返答を頂いた覚えがある。一月500ペソなら、一年で6000ペソ、三年では18000ペソにもなる…。
計算をして、手元に残っているお金は10000ペソ。このまま行けば8000ペソの不足である。件のピーナ氏を突っついても、遠い先の日付を言われるだけで、それも本当に支払ってくれるかはかなり疑わしい。私は以前、2000ペソを何度か貸したことのある別の知人ピーナ氏(こちらも日本語がまぁまぁ話せる)に話を持ち込み、大きな負担にならないであろう、3000ペソを打診してみた。表情はさほど曇ることなく、その翌々日にその金額を借りることができた。これで残るは5000ペソ。
その数日後、ナイトマーケットの屋台台車を収めている市場すぐ近くの元野菜店の敷地内で、昼食を煮炊きしていたところ、その前を通った女性から声が掛かった。プラザ時代から よく私のお好み焼きを買ってくれている 一番のお得意さんで、日本語を勉強して、簡単な単語を言える親日派でもある。私の休業は知っているようで、なぜなのかを訊かれ、ありのままに営業許可の取得を知人に頼んでいるが、かなり難しそうだ、と答えた。最近は自宅で料理をして、近所の多くの子がお客さんだよ、と説明すると、売上げの方は、と問われ、常連さんに心配をかけるのもなんなので、70%くらい、と こちらの方は少し水増しをして答えた。以前のナイトマーケットでは、1枚焼くのか2枚焼くのか、との問いに1枚だけです、と返答しており、その時点でフィリピン人男性の平均的な日給に届いていないことは、ちょっと計算すればわかることであって、自宅の営業ではそれをさらに下回る、ということになる。
日本人の窮状を察したということか、自分のおやつの分であろう焼売をくれた彼女は、私の話を聞きながらバッグや財布から50ペソ札、100ペソ札、500ペソ札、ありったけの紙幣を次々に取り出して私の手に握らせてくれた。

これまでなら、私はカワワ(貧乏)ではないので、と断っているところ、状況が状況なだけに、丁重に礼を言い、受け取ることにした。あとで数えると、丁度2000ペソもの金額が、彼女の言葉を借りると”神の祝福”として私のものになっていた。(一応念のために記しておくと、日本から戻った際は、全額をお土産付きで返すつもりでいる。)
彼女の素性をもう少し書いておくと、以前聞いたところでは、お仕事は「ファイナンシャル・アナリスト」とのこと*2。私は、彼女がフィリピン人であるということとファイナンシャル・アナリストという耳慣れない職業が頭の中で全く結びつかず、目を丸くしてしまった。町に2、30人ほどしかいない銀行員より更にレアな職業のはずで、収入も金貸しや土地持ちを除けばトップクラスのはずだ。
彼女は昨年、マニラの方へ遊びに行っていたとのことで、日本レストランにもおそらく立ち寄っただろう。そこは、駐在の日本人に向けた価格設定をしているわけで、私が作る”Japanese-Pizza”が本来は一切れ40ペソなどではないということは、すぐにでも気付いたはずだ。そうでなくとも、知識層なのだから、フィリピンと日本との収入の差などももちろん知っているだろう。そして私が受け取るべき本来の日収も。今回の件はこれまでの分のその「差額」をお支払い頂いた、とみることもできるわけだ。
これが私の目論見の、「親日派や富裕層と知り合いになる」ということの具現した姿なのである。(コーミョーすぎて本人も気付かない。)
こうして、不足分は3000ペソを残すのみとなった。その間、数千ペソを貸している2つの家族に 少しでもいいので、とお伺いを立てたが、無いものは無いのであり、アテにはしていなかったがやはりムリであった。

さて次に白羽の矢を立てるのは、と思案していたところ、最近も、日本に家族旅行に行っている写真をSNSにアップしている人物を思い出した。私の自宅に日本円が4000円ほどあり、これを今必要となっているペソに 相手側有利なレートで交換を提案しに行こうというわけだ。

この人物は、町の防災課のチーフ、以前に紹介した「氏」の後任としてそのポジションに就いている。
何ヶ月か前、仕事を終えた帰りに、防災庁舎の向かいに材木が積まれていたのを、丁度よい場所に座れる所ができた、と自転車を停めて営業日誌を数夜続けてつけていたところ、声を掛けられた。私の方は全く覚えていないが、2016年か2017年に、「氏」の腰巾着のようにして、庁舎に出入りしていた時に私のことを軽く紹介されたのだろうか、あちらの方は私の顔を知っているようだった。近況を訊かれ、帰国費用を工面するために毎晩JpPzを作って売っていること、そして巨額のウータンの取り立ても並行して行っているということを話した。すると、今度 日本に視察旅行に行く予定があるので、それに同行してはどうか、という話を頂いた。当時は、ナイトマーケットの営業とウータンの取り立てが順調に進めば資金繰りは問題ない調子だったので、その申し出を もし何か問題があったらまた頼みに来ます、として断った。
「氏」の解任のことを訊くと、やはり「ロコロコ(悪さ・いたずら)」があったとのこと。子供の「ロコロコ」は「いたずら」の意味だが大人の ということになると業務上の金銭や物品を私的に流用した、といったところだろう。町長の耳に入って公職を追われたようだ。全く本当にどうしようもない人間だ。
あとでSNSを見るとこの新チーフ氏は何度も日本に家族旅行に行っているようだった。公務員の給与がそこまで高いとは思えないので不動産でも持っているのだろう。

さぁ この人物に、日本円を握って訪ねに行くとどうなるか。
両替に快く応じてくれるだけでなく、私のショゲた顔を見て、それこそ「私の言い値」でペソを貸してくれるのではないだろうか。これが通れば帰国費用の件は解決である。
しかし、よく考えてみるとペナルティが18000ペソと決まったわけではない。これより高い金額を言い渡されたら、私にはどうのしようもない。切れるカードというのは限られており、マニラに行く前に正確な金額を確定させておく必要があるようだった。

今現在 機能しているかわからないPRAのメルアドの一つに、更新をしに出向きたいが、遅延による罰則金はありますか、と問合わせのメールを投げた。すると一日もしないうちに返信。しかし営業時間の案内や訪問時の注意などのみで、肝心の答えが何も書かれていない。定型文で返事を寄越したのかと訝しみながら、改めて質問はこれこれで、と送ると、なんとペナルティーは無いとのご回答。ラッキー!

今回は何のオチもないが、以上の次第で日本帰国への道は開けたのであります。

(追記)PRAのオフィスに行ったところ、なかなかの賑わいだったが、少なくとも3組がSRRVのキャンセル(=預託金の返還)の申請ということだろう、その証明書の収まっている黄色の厚紙ファイルを手にして窓口で話をしている光景が見られた。移動規制によって更新に行けなかったのに、それに対してペナルティを払えとは何事だ、こんなビザなんて辞めてやらぁ!*3 となると、ただでさえコロナ禍でビザ取り消し者が続出しているのに、これ以上は、という判断で当面の間 ペナルティ無しになっているのかもね。

*1:現地の少し高めの日給に相当する

*2:フィリピンでは職業を訊くのは全く失礼には当たらない

*3:一部では「特別監査付き観光ビザ」とさえ言われている

南国フィリピン、6年越しのボンバイ(金貸し)とその取り立ての顛末


「取り立てしなきゃ」。

 

と、今回も 特別お題を瞬殺して本文へ…

 

 


 

 

フィリピンで暮らすにあたって、一番大事なものは何か。それはやはり「お金」であろう。お金が無ければ、どうにもならないし、お金があれば大抵のことはなんとかなる。とはいうものの、無かったら無かったでなんとかなってしまうのがここフィリピンの面白さである。

去る2022年10月21日、円が1ドル=150円まで暴落したことがあった(今も安値傾向だけどね)。生活費の工面すら苦労していた私(今も苦労しているけどね)は久々に通い始めたピソネット(12ペソ/h)で連日ヤフーのニュースに取り上げられているそれを見て、今 SRRV(特別退職者居住ビザ)を解約して預け金のドルを円に戻せば…、と俄に浮足立った。

つけている日記を遡ると5万ドルちょいを預けたのは1ドルが104円の時であり、それを1ドル=150円の今 円に替えると、なんと200万円もの大金が元金に上乗せされる…。

フィリピンで6年暮らしているうちに200万円も増えてしまった(日本では電気・燃料を始めとして物価高に見舞われているという話なので、実質的にはそこまでの増分はないか)、ということになる。

ビザ解約の手続きを、コロナ禍の最中に問い合わせていたな、思い出し、その返信メールを探し出すと、30営業日ほどかかると記されている。1ヶ月の間にこの不安定な為替相場はどうなるか。5円違うと5万ドルでは25万円の差になる。

増えた200万円を再びペソに替えれば、ウヒヒ…、と思っていたのだが、よく考えたら、「本体」の500万円余りの方も日銀先生のお陰で価値が弱くなっており、総額700万円のピソ分の価値というのは、あまり変わらない(それでもいくらかはペソは増える)ということに思い至った。

ビザキャンセルの一番のネックとなったのは、発給要件が変わって引き上げられた申請可能年齢の50歳で再びSRRVを取得するまで、仕事をするとそれが完全に不法就労になってしまうことだ。

今現在もSRRVの「AEP(外国人就労許可証)を取得すれば働くことができます」というところのAEPを取っていないのだから法令遵守となっていない。法律違反に「ちょっと」も「完全に」もないのだが 、悪い線は消しておきたい。

また、申請費1400ドル(20万円弱)が再びかかるのやフィリピンと日本の警察署で犯罪経歴証明書などの書類を揃えるのも面倒臭い。

いずれにしろ200万円の儲けというのは、ずっと以前に円から外資に変えておいた資金を円安となった今、円に替え、次に円高になったときに外貨に替えた時に初めて発生するのであり、私のような小金持ちには分不相応な話、悠長に構えていられる富裕層が、ということのようである(「さんすう」がネガテなのでここ数行が正しいかは各自で確かめてください)

私が円安の恩恵に浴する日は来るのか…



 


 

 

さて、私がフィリピーナに現地の価値に換算してかなりの額を貸して、その回収が難航している、というのは以前に触れたとおりなのだが、最近なってその件に進展が見られた。

また話が遠回りしてしまうが、昨年11月、というかそれまで数カ月に渡ってプラザ(各市町の大教会の向かいにある広場)内にある市の観光課の小さなオフィスの軒下で野営をしていた(未明の市場の外周で、トラックなどを使って開かれる朝市を利用するとキャベツなどが割安で買えるため、ずっと朝帰りをしていた。他の青少年やホームレスは夜9時ごろに市職員のガードマンが来て追い払われるのに、なぜか私だけは おめこぼし。いったいなぜなのか。)ところ、未明に目覚めるとオフィスの外壁と背中に挟んで寝たはずのリュックの感触がない…。ガバッと身を起こすと、やはり影も形も無くなっている…。やられた、と別世界に放り込まれた感覚に襲われる。財布、スマホ、仕事用のノート、USBメモリ、と大事なものが全て入っており非常にまずい状況である。小走りで周辺のゴミ箱などを見て回ったがあるはずもない。広場の真ん中で髭ぼうぼうで悪い目つきのホームレス氏が使い込まれたリュックを抱えてしゃがんでいる。不躾とは思いながら、そうも言っておられず、私のリュックが盗まれたので中を見せてくれないか、と言ってみるも拒まれる。まぁ物を盗んでまだすぐ近くに留まっているというのは不自然で犯人とは違うだろう。
どの方向へ持ち去ったのかも分からず、当然私一人の手に終えるわけがなく、プラザすぐ隣りのポリスステーションに駆け込むことに。当番の婦警氏に事を話すとCCTV(防犯カメラ)が向かいの町役場にあるということで、8時になるのを待って伺ってみた。その一室には大きな2枚のモニターに40台くらいのカメラの映像がリアルタイムで映されていた。プラザ内外にも数台が設置されており、職員と一緒に早送りで見ていく。1時間ほどすると監視室のチーフのような人物が来て、被害届がないと入室は駄目だとのことで追い払われる…。警察署へ戻るが被害届はIDがないと書けないとのこと。そのIDも盗まれているわけだが、パスポートなら自宅にあるのでと、明日出直すことに。所持金はゼロであり、朝の婦警氏から80ペソを借りキャベツなどの材料費に充てる。時々売上げが極端に悪い日があり、今日がその日だったらどうしよう、となるも なんとか完売。次の日はお好み焼きのトマトソースを作らればならなく、再びポリスステーションに出向いたのはその次の日。
婦警氏に礼を言って返済。別の若い警官にポリスレポートを作ってもらう。役場のCCTVにプラザが映っている、行ってほしいと言うも、別の事件か病院に行かなければならないとのこと。


ポリスレポートを持って再び監視室を訪ねる。
カメラのひとつがかなり遠いながらも、私の寝に入る様子を捉えていた。それから1時間ほどした深夜12時前。オフィスの脇を、寝ている私の傍を3往復する怪しげな人影…。そしてその後、カメラのある方向に何かを前に抱え、後ろを気にしながら去っていくのが映っている。犯人やないすか…。 別のカメラでは、河原しかないはずの南の橋の下から男が来て、国道を跨いで西へ帰っていくのが映っていた。
ポリスステーションへ戻り、映っていた、捜査してくれと言うも、受理の警官は不在とのこと…。いや、あんたが行けばいいやんか。
市の職員は危ないから行くなよと念を押されていたが、スマホなんかはすぐにでも売り飛ばされてしまうだろうと南西にある集落と河原を捜索することに。プラザから2分ほど歩くと集落手前のジャンクショップの前の道路に、見覚えのあるものが落ちている。私の日記帳だ。仕事用のノートも側溝に浮いており、USBメモリやカッターなどの入った道具袋もそのドブ川に浸かっている…。ぐぬぬである。
USBメモリはキャップがついていたお陰で中身は無事だったが、6年愛用していた日本製シャープペンシルは見当たらず。もちろん犯人の方は家があるのか無いのかもわからず、どうもやりようがない。カメラ・時計・ライトを含んでいたスマホの喪失が痛いが、仕事用ノートが回収できたのは不幸中の幸いだ。

 

 


 

 

なぜこの盗難の話が、今回のウータン(借金)回収の表題の中に入っているか。被害届(ポリスリポート)を作る際に、その前に少し離れた別の建物にある遺失物課みたいな所へ行って書類を作ってこいとのことで、そちらに向かった。待っている間に、建物内の案内プレートなどを見ていると、ここはどうやら裁判所であるようだった。
警察署でのやり取りの過程で、私のパスポートもIDも有効期限が切れていることが明らかとなったが、特段のお咎めも措置も無いようだったので、法を司る裁判所においても、借金の未返済があり、そのために不法滞在の状況にある、とすれば、悪いようにはならないだろうと見込んで、書類作成を終えたあと、少し勇気を出して、知人2人にウータン未返済があるのですが…、と相談してみた。すぐに若き弁護士が来て、呼出状を作ってくれた。全て無料だという。返済を迫るか、投獄がいいかと訊かれたが、牢屋に入れても私は一銭の得もしないので、返済の方を選んだ。

最近5年の間、本当に1ペソたりとも返していない主犯のピーナ氏は、バランガイ(村にあたる行政の最小単位)よりさらに上の地方裁に話が行ったのに恐れをなしたのか、珍しくナイトマーケットに来て、来週から毎週250ペソを支払う、だから召集の日には行かないでいいでしょ、と言ってきた。
一旦は了承したものの、またもあちらのペースで事が運ぶのは良くないと考え、支払いの当日、もう公(オフィシャル)になっているんだから、同意書も作らないといけないし、行かないとダメだよ、と断った。紙幣も見せられたが、情状酌量の余地が生じてはいけないので、受け取らずに、裁定が下って、きちんと取り決めができたあとに貰うことにした。
そしてその数日後。指定の日時に裁判所の建物に出向いた。しかし、被告人2名は居るものの、肝心の弁護士氏の姿が見えず。ピーナ氏に電話がかかってきて隣の市に出張に行っているとのこと…。マジかよ。結局、毎月1500ペソを支払うという話で妥結。同意書などは何もなく、またも口約束となった。
まぁそれでも、バランガイを通して呼出状が行ったことで借金トラブルを抱えていることが近所中に知れただろうから(主犯のピーナ氏は、自身に借金は無く私のことをクレイジーだと近所に言い触らしていたらしい)、打撃としては十分だ。金額についても反論がなかったということで、全額を私の言っているもので相違なし、と認めたに等しい。

かくして12月から返済が始まった。主犯のピーナ氏は、週250ペソでは月1000ペソほどにしかならないため、週350ペソにしてもらった。しかし僅か3週目から返済が滞り始めた。働いている食堂がお客さんが少なくて休業となり収入が途絶えた、とのこと。市場近くのそこへ見に行くと確かに閉店となっている。商売の頓挫はフィリピンあるあるで、そんなことを理由に返済がなくなったのでは こちらとしては堪らない。親戚からでもボンバイからでもお金を借りてきて、と圧力をかけ続けた。
1月に入って別の仕事を見つけたようなことを言っていたが、それもこれまたよくある病気をして仕事ができない、といった理由で支払いをしない。3週間分が滞ったところで、返済をしないのであればBJMP拘置所。フィリピンには刑務・懲役というものは無いので「刑務所」は存在しない。ただ収監されているだけ。家族との面会はかなり自由。)に入れる話を裁判所に再び行って進めるぞ、とのメッセージを送った。
すると「BJMPに入るのは怖くない」、「お前が不法滞在で違法に働いているのを告発するぞ」などの返信。
これに対し私は、「警察は私の不法滞在を捜査・追及しないようだ、役場の職員もナイトマーケットの店員らも私がなぜ働いているかを知っている」、言い触らしに来てもアンタが恥をかくだけだぞ、と含ませて返した。
ハッタリも尽きたとみえ、「どうして私たちを脅かすようなことをするのか」など。私は事実と法律に基づいて話をしているだけで、それに怯えるのはそちらの勝手である。5、6年も不誠実な態度を貫いておいて なんなのだろうか。

その数日後の2月中旬、私は債務者2人に呼び出され、プラザに向かった。私の貸している10分の1以下の金額でヒットマンが雇えるのであり、そういった点は想定しなくともよいのだろうか。
話し合いをしようとのことだったので、次はどんな「言い訳」を使ってくるのかと思っていたのだが、すんなりと主犯のピーナ氏から1000ペソ、従犯のおばちゃんからは1500ペソを得ることができた。
2人には、私はお金が欲しいのではない、日本に帰りたいのだ、1000ペソずつでは今夏までにチケット代が貯まらず意味が無いから、遅延したり、減額したりしないよう、と言い渡した。おばちゃんの方には、市の助役をしていた夫の寡婦年金で毎月5000ペソ入ってくると言ったから貸したのだぞ、と釘を差した。それが違うのなら詐取であり、BJMP入りの補強になる。
2人は毎月25日ごろにここで支払う、とのこと。何日でもいいが月末までに支払いがないと、翌月1日に裁判所へ行くぞ、として別れた。

 

 

 

 

以上のように、一日分の売上げ320ペソの入った財布、500ペソで買ったスマホ、8Gのメモリは300ペソくらいか?、ATMカード再発行手数料150ペソ と引き換えに、毎月2500〜3000ペソの返済の約束を取り付けたわけだ。

なぜ今まで、借金の件で警察署を訪ねたり、裁判所を探したりしなかったかというと、警察署の方はID更新の怠りを指摘されるのを避けた(最悪 、拘束のおそれがある)、裁判所の方は、「それ民事やないすか、きちんとしたサインも貸借書も公証人の手続きも無しに どう扱うんですか」と撥ねつけられるのが怖くて、というのがその理由である。早かろうが遅かろうが変わりはないはずなのに、それが確定して 残りのフィリピン半生を過ごすのが怖かったのだ。往々にして人の判断というのは不合理である。結果としては、私の訴えがそのとおりに認められ、前回に計算した収入とは別に、少なくとも2500ペソが上乗せされることになった。これでおやつのバナナは3山30ペソを日に買うことができるし、夕食は一杯10ペソの具なしLugaw(夜市の同業者ということで少し安くしてもらっている。生姜味でおいしいが 当方で青ねぎ、ターメリックパウダー、アニス、フルーツ味紅生姜、肉ラー油か茹で卵を足してかなりおいしくなる)からバジェットミール(定食。ライスと野菜料理と少しの肉料理の三点盛り)30ペソ(これも安くしてもらっての値段)にランクアップできる。

あとは この返済が、フィリピン人の最も苦手とする「継続」となるかどうかだが…。

 

 

 

南国フィリピン、最近の営業収支&生活費を公開

今週のお題「行きたい国・行った国」

 

私の行きたい国は「日本」です

 

 

いつになく今週のお題を一瞬で消化して、本文に入っていこう。

冗談でも何でもなく、本当にその通りなのだから――。

 

 


 

 

またまたごっそりと間が空いてしまった。まだしぶとくフィリピンで棲息している。

 

2021年12月に始めたお好み焼き売りは、コロナ明けでプラザ(大教会前の広場)から町の公設市場のナイトマーケットに昨年6月より場所を移して ほぼ毎日営業を続けている。

忙しいアピールをする訳では無いが本当に時間が取れず、ブログの方まで手が回らなかった。

時間がないのに加え、最近は資金の逼迫もあり、一時間15ペソのネット代の捻出も慎重にならざるを得ない情けない状況にある(悠長にタイピングすることもできず、ノートに下書きしたものを見てタイプしている)。

 

今回は先輩諸氏が生活費を公開しているので私もそれに倣って、フィリピンに於ける”困窮邦人”の生活収支をお見せしたいと思う。この生活水準の在比邦人がその生活費をネットに上げるというのは他に例が無いはずで、まぁ半信半疑で(住居費は桁が二つ違う)楽しんで頂ければ、と思う。

 

先輩諸氏の動画との一番の違いは費用の大小なのではなく、その表示が円なのかペソなのかという点である。多くの場合は単位が円のみで示されている(時々、口頭でペソに換算している)のだが、それが私と比べてどういった意味を含むのか、ちょっと気に留めながら読み進めて頂ければ幸いである。

 

 

生活費公開というより、現在の持ち金、または貯蓄動向で日本に(現金を取りに)帰れるのか、直近で試算したものの中に生活費も含まれていたということなので、その順に、まずは帰国できるかの状況やその費用の話から始めたいと思う。

私のビザは、SRRV(特別退職者居住ビザ)なのだが、コロナ禍もありマニラ首都圏に行けなかったこともあり、年一回のID更新(年会費という名目となっている)を三回分も怠っている。$360/年が発生し、締めて$1080也。ドルを✕55でペソに直すと59,400ペソとなる。現在の手持ちの日本円は18万円、最近になって円が復調してきており、0.4000とすると72,000ペソということになる。これから差し引くと残りは12,600ペソ。パスポートも切れてしまっており、10年ものなら7,200ペソがかかり、これで残り5,400ペソ。これらの更新にマニラに一往復するのと日本へ向かう一路分で計1.5往復分のバス代1,200ペソ。そうすると残りは4,200ペソしかない…。ヒコーキのチケット代は安いのを狙っても諸費用を含めると10,000〜15,000ペソは必要だろう。1月現在のサイフ内には1,700ペソ、銀行には2,000ペソがあるが、それらを足してもヒコーキ代には届かないことがこの試算で明らかになった…。マジかよ…。どーすんのこれ…。

0.4000が0.4400まで戻れば7,200ペソの資金増になるがそーゆーのをアテにしててもね…。

 

 

幸いなことに私はフィリピンで職を得ているので、次はそれを中心に生活費を見ていこう。

 

現在、毎夕5〜8時半くらいの間でお好み焼きを作って売っている。プラザ時代のノートを見返してみたところ、2枚焼いていた日も結構あったよう。それと比べると最近は1枚売り切るのがやっと、と低調に推移している。

プラザはセブイレも近くにあり、人出がさほどでもない割に お金持ちが多かったのだろう。現在の市場ではそれらが逆。仕事帰りの人々や学生で賑わうが、当方に関して言えばそれに伴った売上とはなっていない。特に40代以上の男性は、おかしな中国人から物は買わないということなのだろう、家族連れでもない限り絶対に買ってくれないし、目を向けることもない。 

毎日買ってくれる御婦人が二名。一人は娘さん(30歳過ぎくらいか?)がアニメ好きで私のお好み焼きを買ってくれて、そのお母さんということで平日は毎日2切れ買っていってくれる。もう一人も「私のディナーなの」ということで毎日1切れ買っていってくれる。年末年始で10日ほど休んだときには「I miss Japanese pizza」との言を頂いた。たまに「アリガト!」と言ってくれる。いずれの御婦人も親日派なのである。他の準常連の方々もその多くは親日派であり、アリガトーといってお好み焼きを受け取っていく。

この親日というファクターは、私に対してフレンドリーであること、好奇心が(食に対しても)高いこと、学業を修めていて知的であること、それ故に所得が高いこと など好ましい属性をごっそり引き連れてきており、私のPizzaが少々高くても買ってくれることに大きく寄与している。

買わない人たちというのは、全てこれらの逆で、特に食に対して保守的な人が多いというのが困りものだが、まぁ私の方もそういった人たちに頭を下げてまで買ってもらうつもりもないので、そこら辺のものでも食べていればいい、と思うことにしている。それにしても、私の調理台車の前を、珍奇なものを売っているのに、目も向けず素通りしていく多くの人たちを見て、こんなにキョリが近いのに今後も一切、彼らの人生と私の人生が交差することはないのだな、と思うとなんだか不思議な気持ちになる。

 

西隣りのTAKOYAKI店は連日盛況。

3ケ入 約150グラムで20ペソ、私のPizzaは同じ150グラムで1カット 40ペソ。タコヤキの二倍の値段ということになる。

フィリピン在住の方ならご存知なのだろうが、このエセタコヤキは白・黄・赤の3種のひたすら甘いソースがかかったもので、日本人からすればお金をもらっても食べたくないシロモノ、つまり罰ゲーム級の味わいなのである。何かの折に2、3度食べたことがあるが、その味と あのタコ焼きがどうしてこんな姿に、という思いとで、遠い所へ来たなぁ と本当に泣きそうになる。

この安値TAKOYAKI店はそのソースがあり得ない量かかっており、もう「甘ソースのタコヤキ添え」に名前を変えたらどうかと思うくらいだ。これが安さもあって常に人だかり、ということなのでフィリピン人の味覚は推して知るべしである。私はそうした中での戦いを強いられているわけで、私のブースの前は客の真空地帯である。

 

私のPizzaが特段高いというわけではなく、向かいのShawarmaは、やはり150グラムほどで50ペソだったのを1月中旬から65ペソに大幅値上げした。このShawarumaの50ペソというのは私のピザの価格を設定するにあたって参考にさせていただいた。プラザ時代のPizzaの価格は30ペソ。ナイトマーケットではキャッシュチケットと呼ばれる税金の徴収があるということが事前の調査で判明したので(写真の紙幣の下に敷かれてる「5」という数字の書かれた証紙がそれ。10枚なので50ペソの支払いをしたことになる。他の大人数で回しているおかず店などは100ペソをほぼ毎日切られている)、

それに耐えられるように値上げする必要があった。Shwarmaを買って計量・実食してみたところ、まぁ肉をメインにした料理であるので肉のおいしさはあるのだろうが、特に珍しいスパイス感があるわけでもなく、肉以上でも以下でもない。展示の肉塊がビジュアルとしてインパクトがある、中東料理であって珍しい、といった点だけが強みであるとみた。それなら日本料理であるお好み焼きは、中東料理より珍しい(Shawarmaはナイトマーケットで計2、3店あるし、ここの町より大きな市に行けばきっと常設店を見ることができるだろう。対してお好み焼きなんてマニラまで行かないとお目にかかれない)し、見かけだってカラフルでスパイス・ハーブ類はソースを含めれば20種類は使っているのだから、Shawarmaと同じ50ペソかそれ以上は取っていいだろう。しかし、急に20ペソも値上げするのか、とプラザの同業者の心情に思いを馳せ、またShawarmaにも敬意を表して40ペソという値段に落ち着いた。別に40ペソに縛る気はなく、2022年8月から投入したつけ麺では

40ペソや45ペソという値段でもよかったのだが、Shawarmaに挑戦する意味で50ペソとさせていただいた。この私のつけ麺というのは、フィリピンでよく売られている屋台のラーメンとは一線を画している。フィリピンのそうしたラーメンとは、麺はやや細めで麺量は間食に相当するためか結構少なめ、何といっても麺を茹でていないのが特徴だ。スープは牛骨や牛のホルモンで臭みがある。スープのおかわりは自由であることが多い。それでは、これはおいしいか。スープのおいしい店はあるものの、日本でいうところの焼きそば麺と給食のソフト麺の中間くらいのそれは、茹でてないがためにふっくら感がまるで無く、ボソボソなのである。麺には塩が多く入っており、常温でも日持ちするようにされているのだろうが、炎天の下で過ごすので麺にほのかに腐敗臭が漂っていることも3割くらいの高率で出くわす。

 

通常のラーメンを提供すると水が多く要り、運んだり管理したりするのに労がかかるため(スープが余った場合も大変だ)、つけ麺ならと構想を練った。その結果、図らずしも上記のラーメンの全て逆張りとなった。つまり太麺であり、茹でてあり、スープは濃いめで下が浸る程度の少なめ。スープではなくしっかりと麺を主役にした仕様となっている。少しはフィリピン人の舌に歩み寄りをみせるか、と甘めのスープにしてある。

スープの配合を完成させたあと、つけ麺について改めてネットで検索してみると、私のスープとは明らかに違う点があった。どこも結構「脂」を入れている。私のはポークキューブというクノールが出しているコンソメの豚味のものが少し入っているだけであとは、煮干しなど4つの乾物と多くの和洋中のスパイスで構成されている。そしてほんのりトロピカルフルーツ味である。もし私のなんちゃってつけ麺に下敷きがあるとしたらそれは故郷の8番ラーメンの唐麺かなと思う。あれに多めにラー油をかけて食べるのが好きだったのだ。大盛りを頼むと多すぎてしばらく食べたくなくなるのが難点だ。1.5玉を強く希望したい。

 

 

安値TAKOYAKI店の方は一家四人で回しているが、利益率が良くないのだろう、ボンバイ(インド人の金貸し)がほぼ毎日 顔を出している。営業店に借金取りが現れるとは地獄の光景であるが、ここはフィリピン。ナイトマーケット全体で見ても2割くらいの露店が利用しており珍しいことではない。

既製品のソースをなみなみと注ぎかけ、紙パック・紙カップの類いも買い掛けで仕入れているよう。こんなことでは自身が働いて利益を上げているのか、製品や消耗品を購入して業者を儲けさせてやっているのか分からない。目先の売上のことに気を取られて、利益のことを気にしてないのではないのだろうか、と他人事ながら心配になってしまう(以前の記事:『これがフィリピンビジネスだよ!』も参照されたし)。

安値TAKOYAKI店は西隣り。2つ東にはJpTAKOYAKI店が3ケ25ペソで売っている。

ソースは日本に準ずるたこ焼きソースがかかっているのだが、中身はカニカマかチーズかベーコン。タコどころか、市場で手に入るイカすら入っていない。この2つのTAKOYAKI店に挟まれる形で認知度のゼロのOKONOMI‐YAKIを作る私…。TAKOYAKIが日本オリジンだってどのくらいのフィリピン人が知っているのだろうか?

 


 

すっかり話が遠回りになってしまった。

遅まきながら、Jp‐Pizzaの利益も含めて生活費を羅列していきたい。
日本円での表示は省略させていただく。2.4倍ほどすれば近い数字になると思う。

 

 

Pizza売上320(@40×8Cut) ‐ 原料費等105 = 215ペソ/日、6,450ペソ/月

調理台車置き場料金(炊事場・水道付き)500ペソ/月

キャッシュチケット@50ペソ 週3回程度 600ペソ/月

残利益 5,350ペソ/月

 

 

食費 朝昼夕おやつ を 20・20・30・10ペソとして、

 80ペソ/日、 2,400ペソ/月

家賃 300ペソ/月

電気代 0ペソ

水道代 0ペソ

ネット代 300ペソ/月

交際費 0ペソ

通信費 0ペソ

交通費 0ペソ

 

貯蓄可能額(利益ー生活費) 2,350ペソ

 

 

表も何も作らず見づらくて申し訳ないが、以上のようになる。今年の夏頃に帰国をしたいのだが、これが6ヶ月続けば、14,100ペソ貯まる算段である。前述の現在の手持ち分7,900ペソを足せば心許ないながら、なんとか日本へ飛び立てそうだ。

 

 

12月の一時期、納税課の上層部の考えが変わったのか、毎日チケットを切られるようになってしまったことがあった。

親日層に向けて、あんたらに買ってもらわんでも何も困らんわ、とタカを括っていたのだが、さすがに収益が悪くなり、開始時間を繰り上げたり、Pizzaとつけ麺との2メニューにしたりして

対応に追われた。今は元に戻っている。

 

私はくだらないことで人を驚かすのが好きで、私のJp‐Pizzaを食べたフィリピン人が、マニラなり日本なりへ行って”本場”のJp‐Pizzaを食べることがあれば、「なんだこれは、ナイトマーケットで食べたものと違うぞ」、ということと「ナイトマーケットで食べたものの方がおいしいぞ」ということ2点で2度びっくりするだような、とニヤニヤしながら毎回焼いている。「そんな馬鹿な、このホラ吹き野郎め」と思った諸氏は私の 日本のものでもない、フィリピンのものでもない 無国籍Jp‐Pizza(なんだか私みたいだな)がどのようなものか、一度足を運んでいただきたい。

 

はてなブログを見たと言って頂いた方には、通常価格 お好み焼き40ペソ、つけ麺50ペソのところ、それぞれ400円・500円の特別価格で提供させていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルソン島の La union 州の Bauangという町(南のダグパンや山地のバギオから車で2時間くらいか)の国道沿いのパブリックマーケットで

毎日夕方5時頃から8時台に完売となるまで営業している。近くまでいらしたときは お立ち寄り願いたい。つけ麺の方は土日のみだが、平日にも注文があることから、30分待ってもらえればスープを沸かして提供できる体制にした(ただし麺を売っている店が7時頃の閉店なのでそれ以前の注文に限る)。

 

 

以上のように、フィリピンで結構ガッツリめに働き、円とは程遠い生活を一年以上送っている。フィリピンという沼にどっぷりと浸かってしまっているわけだ。日本で新札の発行がされるのかされたのかもよくわからないし、今年が令和何年かなんて三〜六年のあいだに収まっているだろう、くらいしか見当がつかない。こんなことで日本に帰って何かできるのだろうか?

「ガッツリめに」とはあるが現地肉体労働者は400ペソくらいは日給を得ており、それとくらべるとチンケな収入である。日本で働いていた頃の収入と比べると30分の1ほどしかない。皆さん手元に紙があれば直線を引いて、その両端に0と30を書き込んだあと、1に相当する位置に印をつけてほしい。「フィリピンで働く」というのは限りなく0=「働かない」に近い。それが2倍の2になったところでさして変わりは無い。「フィリピンで働く」というのは、自分ながら とても正気の沙汰とは思えず、今はただ、フィリピンにて働いているという、あり得ない状況を楽しんでいるという状況だ。

 

 

 

フィリピンで働く!

またまた間が空いてしまった。フィリピンの労働省が外国人の就労の状況を監視するという不穏なニュースも入ってきているが、今のところ私は、以前に想像力を逞しくして考えたような拘束に遭ったりしていない(当たり前か)。

ニュースでは、AEP(エイリアン・エンプロイー・パーミット(外国人雇用許可証))を発行しているDOLE(労働省)とPRA(フィリピン退職者庁)が連携してAEPを取得している外国人を監視するということだが、大きなギモンが2つある。
まず、驚かされたのが「え? 今まで情報の共有とか してなかったの?」ということだ。AEPを取得すれば働けます、というのは当時の(往年の?)SRRV(特別退職者居住ビザ)のメリットの目玉の一つであり、「取得に際して行政機関とのやりとりをサポートします」(具体的に何をしてくれるかは不明だが)とまで謳われていた*1ので、申請があればその可否を含め、てっきりDOLEからPRAにフィードバックがあるのかと思っていた。そうではなく今まで連携がなかったということだ。どうも腑に落ちない。
それとも昨今の事情に鑑み、改めて連携をアッピール、ということなのだろうか。

もう一つのギモン。 現在AEPを取得しているSRRV保持者は366人、これを監視するということであるがSRRV保持者の総数をご存知だろうか。7万人である。”特定国”となってしまっているC国だけでも2.8万人いるとのことだ(※2.8万人というのは帯同の家族を含めての数で「若い中国人が大量に」と言うのは話を膨らませすぎ、という説もある。まぁそれでも国別の数ではチャイナが抜きん出ている)。そうしたなかでの「366人」を監視して、どうなるのか、といった点だ。
違法な就労を防ぎたいのなら、むしろAEPを取得していない層を監視するのが尤ものように思われるが違うのだろうか?
余計なお世話ではあるが、以前も触れたように、それだけの数のSRRV者の”監視”を限られたPRA職員で、一体どうやって行うのだろう?「監視」というからには、第一義的には「目」を使って見るのであり、ポリスの手も借りて一人ひとりの行状を見に行くのだろうか? それとも、もう少しサイバーチックに発信チップでも生体に埋め込むのか? はたまた、最近のコロナでもあったように、一日一回 居場所の情報をスマホから送ってもらうとか?
いずれにしろ、手間をコストがかかってきて、その割りにそこから得られる信頼性はたかが知れている。
監視とはAEPのファイルを捲る以外に具体的にどうするのか。

もう一つ、同じニュース内で、「彼らが退職生活を許可されているのは地域社会への貢献を期待されてるからだ。つまり才能だけでなく経済的な貢献も必要」
という文言も見かけたが、「経済的な貢献」は、平均的なフィリピン人の20年分の労働対価にも相当するドルをフィリピン国内の銀行に預けたSRRV申請の時点で、その多くを果たされているように思うのだが、私の考えが違うのだろうか。

 

さてこうしたニュースの方も「働く」というお題に微妙にオーバーラップしているが、本ポストの本編はここからである。( いつも通り 前置きが長いので、実際の出店の様子だけを知りたい方はずっと下の●印まで移動してくださいです… )

12月中旬から、私はフィリピンで働いている。本来SRRV保持者の私はAEP無しで働くことは違法である。しかしここフィリピンでは法律はあってないようなもの、というか「法令」という体系というものは、上意下達のピラミッド式に制定・運用されているのが本来だと思うのだが、こちらの国では、中央が定めた決まりより地方政府だったりバランガイ(村くらいに相当する行政の最小単位)だったりの運用の匙加減の方が実務上は重んじられたりしている。私も2017年だかにDOLEの支所の職員から、AEPの発給はいいから勝手にやってくれと言い渡された経験もあるので、「それではこちらの好きにやらせてもらう」とばかり、コロナ禍の金欠の下、飲食の商売に乗り出したというわけだ。ちなみに村長からは「このバランガイの中ならどこで商売してもいいよ」というお墨付き(いや口約束か)を頂いているので、バランガイ的には白に近いグレー、中央政府的には黒、ということになる。

当ブログを通して読んで頂いている方には、料理なら今までも作って売っていたんじゃないの? とお思いになるかもしれない。私が複数のフィリピン人から聞いた情報によると、自宅の軒先などで料理を作ったりものを売ったりするのは「ビジネス」の括りに入らず、零細な家業ということで役場への届け出や納税なども不要なのだという。境目を訊くと、瓶入りソフトドリンクを扱っているか否か(冷蔵庫が要る)といった辺りらしい。いかにも南国の、ざっくりした仕分けである。
というわけで、今回はこうした自宅周囲ではなく、各市町の中心部に大教会とセットで必ずある「プラザ(広場)」への出店に踏み切った、ということである。

上述のように、自宅前でなければ、通常は必要な届け出一式(衛生証明、防火点検環境料の支払い)が必要である。しかし今回はそれらを力技?で一気に省いての強行出店であり、そこに至る経緯は以下の通りである。

私がフィリピンに着いたのが2016年。1年目か2年目かに日本語を話せる6、7歳上のピーナちゃんと知り合い、市場の小さな食堂を借りて日本のメニューでも出せないかな〜、なんて考えてた私はそのピーナ氏に各種届け、根回し、通訳をお願いした。DOLEに同行したのも彼女だ。日本では水商売をしていたと思われるピーナ氏は、私が依頼者であるという立場を利用し、様々な理由をつけて金を無心するようになってきた。
依頼料ということで初めは目を瞑っていたが、フィリピン人の金へのだらしなさは、彼女も同じで、「来月ニホン行ってシゴトスルダカラ」などといった真偽不明の言も添え、少なくない金額(フィリピン比)を次々に言ってくる。さすがに途中から返す気がサラサラないのだろうと気付いたが、一人の人生をお金でわからぬ方向へ大きく変えることができるかもしれない、という局面に、おかしな話だがなんだか お金を貸すのが面白くなってきて、少し予算オーバー?したところで打ち切った。
結果としては、Pana製の冷蔵庫と、姉の家に電動三輪車(日本では年配の人が乗るやつね、フィリピンでは歩くのが嫌であるらしく全年齢が乗っている)が増えるという穏当なものとなった。別にギャンブル狂にも麻薬中毒にもならなかったのである(当たり前か)。
まぁその件は、当方の蓄えは当面あって、市場やプラザ近くの良い立地であるこの宅に、ライスでも時々貰いに行って浴室も借りて、10年くらいかけてチャラにさせてもらえばいいか、としていた。

そうして利用していた折のコロナ発生である。ライスを貰いに寄ったところ、(高齢の母も居ることから向こうとしては当然なのだが)門前払いに遭ってしまった。
自由に日本に帰ることもできなくなり、このままコロナが長引けば手元の日本円が尽きてしまうので、今年に入って事情を話して少しずつでも返済を、とお願いした。しかしあれこれ理由をつけて、本当に1ペソたりとも返してくれない。なにか私に恨みでもあるのだろうか?
生きているうちにもう一回くらい日本に行きたい(買い物のため)と思っていたので、どうにかして工面をつけたい。実はもう一人、こちらのピーナ氏の知り合いのご婦人にも少なくない金額(同)を貸しており、そちらは市の助役の寡婦ということで借金があるのが息子ら家族に知れるのが嫌らしく、そこを衝いて、ご自宅に伺うなどして毎月500ペソを返してもらう約束に漕ぎ付けていた。しかし上のような状況のもと、返済のペースを速めてもらおうと以前に登場した、日本の料理をほぼ無料で食べさせてあげていた日本語を話せるフィリピン人男性を伴って会いに行き、「少なくとも1500ペソ、お金があったら2〜3000ペソ」という賃上げに成功した。毎月500ペソなら、毎日20ペソにも満たず、子供のお小遣いのレベルである(家賃300ペソのお前が言うな)。そのペースなら返済までに10年かかることになり、先に債務者が死んでしまう。
実は、この「毎月1500ペソ」だけで、慎ましい生活を送るなら大分ラクになる(手持ちの日本円の持ち出しがほぼ止まる)。ピーナ氏の方の交渉が上手く運ばなくとも、まぁまぁの成果としても良かったのだが、少し痛い目をみていただこうかと(※この人物に現金を盗まれたこともある)、フィリピン人男性に手伝ってもらって、話をバランガイに持ち込むことにした。

しかし、この村役場のキャプテンというのは、当ピーナ氏の叔父に当たる。招集状が自宅に届き、別日で出頭して事情を申し開きしたようだ。容疑は一部否認、借金はあるけど、5000ペソだけ、とのこと。指定の日に三者(四人)でのミーティングがあり、ピーナ氏とこちらのフィリピン人男性が事務所から出て何やら話。ガラス越しに見るとこちらの男性の方は、立って腕を組んだり、机に手をついたり、「怒っているがやり込められている」時の仕草・表情…。
マジかよ、と思っていると戻ってきた彼は「考え、違うよ」。つまり異常な思考の持ち主で、これ以上相手にせぬ方が良いとのこと。どうしたのか訊くが詳細は語ってくれない。彼は市の役場に防災課のチーフとして勤めていたが、「公務員」(フィリピンではやりたい放題)だった彼の、何らかのスネの傷を知っている(彼女も役場に顔が広い)か、警察関係者にも顔が利くことから、何か脅しがあったか。
この後、私を助けようと息巻いていた彼はドーンダウンし、ピーナ氏に電話をかけることすら嫌がるようになった。

こうなると最早、自力でやるしかない。11月下旬、ピーナ氏の家を訪れた私は、その数日前に聞いた、ピーナ氏所有のタコ焼き焼き器を借り受け、プラザでタコ焼き店を開く、と話をするが、私を野放しにして商売をさせる、ということに嫌な臭いを感じ取ったのか、タコ焼き焼き器は現在「隣の市の「ビジネスパートナー」の所」にあるという…。数日のうちに自らの言を翻した、というわけだ。この日の前日も、返済をしないなら、自分で稼ぐから仕事を紹介してよ、と譲歩をしつつ迫ると、PCの仕事ある、高給だ などと言っていたが、これまでずっと嘘の「言い訳」で来た彼女が、今回は本当である、ということは無い。

私の「設定」では、ビザ更新料が枯渇しているから その分だけでいいから返済してくれ、としているわけだが、それへの対応も、村長が「助ける」、とのこと。仮にイミグレなどにどのような人脈があろうと、払わなければならないものは払わなければならない。支払いなしで どうやって一地方の村長が中央政府の機関から発給されている特別ビザの更新を勝ち取れるものか。
それ(バギオ市のPRA支所への同行)は私のコロナ接種回目が完了したら、というふうに日時が設定されているがそんな荒唐無稽なことを当てにしていても仕方ないので、もうあなたの言うことは信じない、私がやることなら100%お金が入ってくるでしょ? と言い渡し、プラザで仕事するから、台車を置く場所だけ貸してくれない? 家の後のスモールスペースだけでいいから、と言うと、そんなことで自分の債務が一時的にでも晴れるなら、と思ったのか、使用の了承を得られた。
ピーナ氏は、衛生証明とがないとダメとか台車もキレイなものをとかいろいろ注文をつけてきたが、私には役場への届け出をする資格(要AEP)も、そして「つもり」もない。もしも各方面関係者に違法営業はダメだよ、と言われれば 債務者の名を出して、日本に帰りたいけど、お金を返してくれないから帰れないんです、だからこうして仕事、No Choice なんです、とやればいい。

これでピーナ氏としては、借金を返していくか、私の営業を認めてサポートしていくかの二択になる。私の戦略は将棋でいうと、飛車角両取りとはいかないまでも銀桂両取りくらいの一手なのである。

また「言い訳」を新しく考えて、裏手を使う約束を反故にされては堪らないので、あまり日を置かずに宅を訪問、留守番の老母氏に、彼女はOKと言ったと断って、柵で囲った車庫を作る作業に着手。台所から廃水がその近くへ垂れ流しとなっており、排水パイプを半割りの竹で延長し、敷地の外へ誘導。ゴミだらけの地面もきれいにして均した。柵を立て、午後には私の畑から竹製のドアを担いできた。買っておいた錠前で施錠、かくして、またしても「一夜城」を築き、フィリピン人のド肝を抜いた(かもしれない)のだ。

ピーナ氏は、ただ台車の車庫が裏手にできた、としか思っていないだろう。そして、この日本人に大したことはできないだろう、とも。しかし上で触れたように二択を迫る一手であり、また コロナ終焉に際しては、プラザと大教会に隣接する 町唯一の私立学校のランチ需要も取り込もうとする意欲的な進出、足掛かりなのだ。


●●●さてここからが本題の本題。●●●
12/8 、お好み焼きを作る支度を整えて村の自宅を出ようと思ったら、6時で日が暮れており、こんな時間にトライセクル(三輪タクシー)ってあるんだっけとハタと気付いた。乗り場に体だけで歩いて見に行くとやはり無い。
翌夕、仕切り直しということで5時過ぎに乗り場へとゴロゴロ台車を引いていったが、明るい時間にも拘わらずトライセクルは無し…。これ以上 日を延ばしても、買ったキャベツが傷むので、もうあんたらに頼まんわ、とヤケになってそのまま台車を引いてプラザに向かうことに。村からプラザは徒歩25分ほどか、ぐうたらなフィリピン人なら誰も歩こうと思わない距離であり、途中で一緒になった知り合いの女子高生は、今からプラザに行くと聞いてゲラゲラ笑ってた。

プラザではすでに屋台村が形成され、邪魔しないようにそこから少し離れた広場の出入り口にて展開。ロウソクを用意していたがクリスマスの電飾などに煌々と照らされ、それは不要だった。
看板というほどでもないがペラ紙の写真と価格表を台車の前側面に貼り調理開始。

今まで公衆の前でお好み焼きを販売したことは二度ある。
一度目は市場外周の夜市にて。27センチの大判のお好み焼きを宙返りさせて、ワォ、ベテラン〜! という声を受け、即座に完売。このときは夜市の代表者を名乗るご婦人から咎められ、一日だけだよとお目溢しをもらい作ったのだ。
二度目は忘れもしないコロナ規制の前日だ。ピーナ氏宅で調理をし、フライパンを抱えて私学の門前に陣取った。その前日はドライカレーを出しており、そちらはビジュアル的に今ひとつだったということか さっぱりだった(公立小学校では馴染んでおり よく売れた)。お好み焼きならトマトソース、マスタードソース、そして網掛けのマヨネーズと彩り良く、大きさのインパクトもある。ピザだ、として売ればドライカレーよりは通りがいいだろう。
そして、多くの生徒が校門から出ていくなか、少し肥満気味の男子高校生が一切れ買っていった。それだけで収穫は十分で、明日、明後日と倍々で売れるはずだ。はずだった。そこへのコロナ。

私学でのたった一切れの販売は大きな意味を持つ。私はお好み焼きを村ではそれを20ペソ、市場内では25ペソで売っていた。そしてこの私学では30ペソで売ったのだ。隣市のショッピングモールでは厚手のピザを28ペソで売っているのであり、それと同じくらいのボリュームでそれよりおいしい もしくは珍しいのであれば30ペソでも決して高くはない。そのことが証明された瞬間であったのだ。

今回のプラザでも同じ30ペソという値付けである。数日前の現地調査でも家族連れや、MTBの青少年らや、ティーンエイジャーのダンスグループなど、いずれも「余暇」を楽しんでいる層であり、財布には自由に使えるお金が入っているはずだ。
始めは物乞いに来た子供(それほど極貧というわけではなく小遣い稼ぎ)が見ているだけだったが、人が人を呼ぶというわけであっという間に十数人の人だかりになってしまった。お好み焼きを宙返りさせる場面では、またもGwapo(カッコイイ)!などと声が挙がる。
それでも初見の食べ物に手を伸ばそうという人は多くはなく、売れたのは半分ちょっと。反省点などを帳面につけて待つが、買う人はおらず、初日の売上は170ペソ、と記して店じまいに取り掛かろうと思ったところ、広場から帰る波が来たようで、8時過ぎ 残り全てが売れてしまった。フィリピン人は冷めた料理でも敬遠はしないということを忘れていた。如此して初日は無事完売で終了。関係者から声を掛けられるということはなかった。

二日目は2枚焼いてみることに。フライパンをティッシュで入念に拭いて2枚目に備える。これを疎かにすると、焦げ付きでお好み焼きの滑りが悪くなり、宙返りに失敗する可能性が出てくる。と、こういったポイントも村での調理経験があってこそ。そう、いままでは爪を研いでいた期間なのである。人並みに稼げれば日本に帰って現金を取ってくるという面倒な手続きをする回数を大きく減らせる。
二日目の売上は、415ペソ。2枚全部売れれば480ペソとなるが差額は途中で私の胃袋に収まった分ということである。南無。

二日おきに未明の市場に、朝市として売られている半値のキャベツを買いに行くため疲労が貯まり、昼寝も挟むことから、三日目辺りから、日付感覚がわからなくなってくる。オーバーワークである。
その三日目は410ペソ。買いやすいように初日から3サイズで売っている。30ペソ・20ペソ・15ペソだ。売上の数字の合計がおかしくなっているかもしれないが、それは売れ行きが思わしくないときに子供に10ペソや5ペソの分として切って売っているためである。一切れが30ペソ、と1/8カットのイラストで明示してあり、10ペソ出した場合のサイズは見当がつきそうなものだが、いざ私がそれを切り出すと、その小ささに驚いて声を上げる子供がほとんどだ。小学校低学年ならそうした話もわかるが、以前記した通り、驚いているのは中学生である。こちらとしては溜め息しか出ない。
以下、連日の出店で、275ペソ、95ペソ、150ペソ、480ペソ、460ペソ、140ペソ、390ペソ、と12/18まで営業を続けた。波はあるが間違いなく成功の部類である。常連で買ってくれるご夫婦もいた。
18日は、日保ちも兼ねてかなりの「甘くど」にしたオリジナルレシピ「肉ラー油」もサイドで販売、持ち帰りオンリーで大小3パックを販売して80ペソの売上も追加で得られた。

出店以来、じわりじわりと屋台村との距離を詰めていったが、店舗関係者から苦情は来なかった。ポリスのパトロールも常駐しているのだが、それからも怪しまれることはなかった。盗みや喧嘩の監視にあたっていて、商業の関係は管轄外ということか。私としては声を掛けられた方が、次の展開となって面白いと思っているのだが。

クリスマス近くは子供が小金持ちになるので、村での調理販売に復帰。

 

 


 


私の使っている調理台車はバナナの出荷木箱を2つ連結させて、下部にキャスターを付けた お手製の3年もの。デジカメが壊れたままなので出荷木箱のイメージだけ

 

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お好み焼きの写真もデジカメが壊れているので、以前撮ったものを再掲。特別開発の南国フルーツ味の紅生姜 添え!

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というわけで、作りたいものを自由に作って、自由に売る。

私のお好み焼きを食べた人の半分くらいはおいしい! とわざわざ伝えてくれる。そこら辺のストリートフードを食べておいしいと声を上げる人はまず居ないので、私の料理が珍しい(のでコミュニケーションを取りに来てくれる)か、かなりおいしいかのいずれか、もしくはその両方ということである。

おいしい! と直接と言ってもらえるのは、あぁ頑張った甲斐があったなぁ、と励みになる。

おいしい、と言ってくれる人の国籍が、別に日本じゃなくてもいいよ、という人は一度フィリピンの田舎に来てみては?

 

 

*1:SRRVのメリットは、効用の大きいもの(私見による)から順に、
①年会費を払えば原則的にフィリピンに永住が許される
②帰りの航空チケットがなくとも入国が許可され、審査も簡単にパスできる
③AEPを取得すれば働くことができる
④国内の口座に振り込まれる年金に税金がかからない
①はビザ自体の本質的(当たり前)なものなので除外すると実質的に2番目に大きなメリットと思われる「労働も可能」という看板が降ろされたことになる。一時はAEP取得なしでも働けるようになるとも言われていた頃もあり、その退潮たるや、トホホ…。

フィリピンでの水浴びと雨季

今週のお題お風呂での過ごし方

 

前回からしばらく間が空いてしまった。
書くべきことは
・デジカメが壊れて、修理に出すまで新しい写真が取れない
・畑を今月いっぱいで出ることになり、村での寝起きが中心となった
・村の住居でサリサリストアを開業、料理の方もやや規模を縮小しつつも ほぼ毎日営業することになった
・日本語を話せる在日歴25年を擁する強力助っ人登場。しかし…
・取り置きの日本円16万では既に日本に帰れなくなっているという驚愕の事実が判明…!

ーーとたくさんあるのだが、それらをすべてスルーし、今回もお題に沿った内容で淡々と綴っていく。

まずフィリピンのローカルエリアでの水浴びとはどのようなものだろうか。(お題はお風呂での過ごし方、とあるが「水浴び」なので過ごすもクソもない、体を洗うのみである。最後に浴槽に浸かったのは大阪・西成区での銭湯のはずで、もう4年以上は経っているはずだ)

家の敷地内に掘ってある井戸や、家々の間にある共用の井戸の水を汲んで、自宅地内のCR(トイレのこと)で水浴び。屋外で、男性はパンツ一丁で、女性は着衣のまま水浴びして、バケツ一杯の水をCRに運んで腰回りなどを洗う、といった場合もある。

以前にも記したが、フィリピンに於いて水供給というものは、上等なものから順に、
・公設のメーター付き上水道を使う
・自前で井戸を掘り、電動揚水ポンプと貯水タンクを設けて蛇口をひねる
・井戸をセメントで固め、人力ポンプ(2000ペソ)を取り付ける
・井戸に竿を下ろして汲み上げる(開放型)
となっている。
台風などで長雨が続くと地下水位が上がり、それにつれ、当然ながら井戸の水位も上がる。すると、地下深部でのフィルター機能が喪われ、周辺の雨水・泥水がそのまま浸入して井戸水が濁ってくる。体を洗わないわけにもいかず、海に近く低地である村の方では「泥水を啜るような生活」といかないまでも、「泥水をかぶるような生活」、ということになる。地獄やな〜。

畑の井戸で水浴びをすることも多い(多かった)のだが、井戸のフタ(ブリキ板)をし忘れたり、敷地内に不法侵入してきた少年らが開けっ放しにしたりすると、夜間のうちに井戸の中へカエルが入ってしまうことがまぁまぁある。それも10センチはある大きなやつである。水汲みの竿桶で掬えばいいのだが、物音がすると水中へ潜ってしまう個体もあり、そうした場合は諦めるしかない。
大蛙の泳ぐ水で水浴びをし、洗濯をするのだが、体なり洗濯物なりがそうした水よりキレイになることはない。(そーだよね)


みなさんは「拾った雑巾」と「拾ったような雑巾」と はどちらがより汚さそうに思うだろうか。何度か声に出したりしてよく考えてほしい。
私は今、「スクウォッターエリア」ではなく、町の人に「スクウォッターエリアでしょ?あそこ」と言われるような集落に住んでいる。そこでは、セメントで封じられ、手動ポンプで汲み出す井戸の水は雨季で水が濁らない限りは沸かさずに飲んでも大丈夫だ、と観念されているようだ。村の中でも外でも山でも毎日のようにゴミが焼却されているが、ここフィリピンでは地下水汚染の問題は存在しない。沸かしたら大丈夫だ、というのは微生物や菌類に対しての話であって、化学物質に関しては蒸発した分、むしろ濃縮されているのでは? と思うのだが、私の考えが間違っているのだろうか。
村に比重を置いて2週間ほど経った。郷に入りては郷に従えという諺どおり、沸かして飲めば大丈夫、といったラインまで自社基準を引き下げて生活している。([HACCP]Have a cup of Coffee, and Pray. 「コーヒーを啜ってあとは祈るだけ」という冗談(自分が生産した食品の安全ことなんか知らないよ)があったがその冗談を一字一句違わず原文のままの行状となっていることに執筆時点で気付く…)

 


日本をドロップアウトしてから5年以上。
井の中の蛙」という一連の語句を諺以外に使う人は、令和の時代になったこの現代日本に一体何人いるのだろうか。

 

 

 

 


 

 

 

 

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[ 2Fに遊びに来た女の子に頼まれて写真を撮った。右の子は中学生になったにも関わらず、いたずら盛りで手を焼いている。遊び半分でサリサリの商品をくすねていくので、商売にならない。いたずらではなく略奪だ。年の近いお兄ちゃんに、家の中の現物を抑えてもらい検挙し、2週間の出禁を喰らわせたが、人事評価制度の存在しないフィリピンでは、一晩寝たら悪行はリセットされるらしく、ケロッとした顔でスマイルをする悪魔のような子だ。私に大小のちょっかいを出してきて、母親や祖母に訴えるも「あらあら、私にもそんな頃があったわね」くらいの温度の微笑みを頂くに留まった。
左の子は以前はウ◯チを投げたりする ひどい いたずらっ子だったが、最近は叔母の商店のホルモンBBQを村内で売り歩く仕事を命じられたようで、忙しいのか いたずらは減少した。私にも毎日のように売りに来るも、買ってあげたいのはやまやまだが、甘すぎたり、臭かったり、グロかったり(鶏のアタマや足先)するので、なかなか買うことができないでいる。一応働いているということなので、たまに1ペソのお菓子をあげている。なお、食品に関しても衛生観念は、(フィリピンでは安定の、)日本でいう未就学児くらいのものとなっており、ネコや犬のウンチのゴロゴロ転がっている砂を手に付けたまま食品を扱っており、その意味でも買うというハードルは高い。買おうとすると、その高いハードルを蹴り倒して進んでいく、といった意味合いになってしまう ]

 

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[ 雨季の初めの大雨で、自宅前が冠水となってしまった女の子。船として遊んでいるのは冷蔵庫のドア。面白いので撮らせてもらった。子供は大雨を苦にせず、外を走り回っているので、全員が足の指の間の皮がふやけ、真っ赤になってしまっている。私も雨上がりの中、市場への往復をすると同じ症状になってしまうようだったので、足を乾かす時間を意識的に取るようにした ]

 

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[ 山下金塊の伝説を信じて掘られた大穴に溜まった水で水浴びをする筆者 ]

 

 

 

 

スパイス甘茶 in フィリピン

今週のお題「好きなお茶」

 

インドのティーマサラのというのをご存知だろうか。
マサラとは複数の香辛料を粉末にして混ぜ合わせたもので、つまりスパイスを使ったお茶ということになる。なので、日本や中国の、茶葉を使ったお茶とは全く別物だ。

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私の手元にあるEVELEST社のものの原料は画像リンク先から確認できるが、実はパッケージにはブラックペッパーとドライジンジャーが原料欄の先頭にあり、このことからもわかるとおり、あまり飲みやすいものではない。飲んでおいしいと思う日本人は ごく少数だと思う。
もしかしたら、私が生涯食べた中で最も甘いお菓子、インドの激甘ドーナツ*1と一緒に頂くのかもしれない*2

あまり口に合わないので、カレー作りのときに少しずつ混ぜたりして消費していったのではなかったかと思う。
しかし、折角「スパイス茶」というコンセプトを知ったのに、という思いもあって、これを自分の好みの感じに寄せていけないか と考え、いくつもの原料を足したり引いたりして、炊事のあとの薪の残り火で試していった。

すると結局、緑茶(現在は品切れ)と五香粉(もしくはオールスパイス)をベースに陳皮増し、というインドとはほとんど関係のないものに仕上がっていった。砂糖多め、塩少々を入れてもおいしく飲める。

これとは別に、ほんのりカレー味の我流スパイス茶もある。ビン詰めカレーを作り終わった釜に水を足して、フチのこびり付いたのなんかをこそげ落とし、砂糖と塩と陳皮を混ぜる。4時間のカレー作り、お疲れさまでしたー ということで飲んで、フチの油脂の固まったやつも溶け込んでおり、なかなかおいしい。釜もきれいになるので一石二鳥である。

先程から「陳皮」というのが出てきているが、ロックダウンでマニラのチャイナタウンに行けなくなったこともあり、お手製の、半日ほど日晒しにした「みかん皮」であり、みかんの皮を「旧陳させた」陳皮というものとは正確には違う。陳皮とみかん皮は風味は異なるのだが、噛んだときにフレッシュなみかんの香りがパッと広がるので、私はみかん皮の方が好きだ。

ここフィリピンはフルーツ生産国であるとともに、実はフルーツ輸入大国であり、世界各地から届いている。みかんも生産地の旬によるのだろうか、同じような値段ながら年間を通して微妙に品種が違う。少なくとも5つ以上の品種があるが、私が気に入っているのはカレーの聖地の一つカラチからの輸入のものだ。大きめで外皮が柔らかく甘みが強い。実の甘みの強さと皮の香りの良さは比例しているような感じがして、その名の通りKarachiと陳列台に名札が立てられたのを見ると、みかん自体のおいしさもそうだが、上等なみかん皮が出来上がるぞ、と買い込むのである。

このみかん皮、私の作る和・洋・中の料理の大半に使われており、100人が作った冷やしうどん、100人が作ったカレーライス、100人が作った中華ちまきを目隠しをして食べても、その中にある私の作ったそれを当てることができるはずだ。
みかん皮を使うと、料理ってこんなに簡単においしくなるのか、と毎回おかしな感心の仕方をしてしまう。

お題に話を戻すと、最近飲んでいるのは「ヒマワリの種茶」。
ヒマワリの種は、フィリピンではいくつかのメーカーから出ていて、いつもとは違うメーカーのものを買ってみたところ、ちょっと塩気が強すぎた。
ヒマワリの種は、普通は皮を剥いて、中の実だけを食べる。八角やシナモンで味付けされているそれは、中に浸透するくらいの分量を配合されているだけあって、外皮はより一層味が強い。なので私は、時々 外皮ごと食べている。
しかし今回、塩気が強すぎたので、いつもより多めに外皮が残ってしまった。あとで薪と一緒に燃やしてしまおうと平皿にゴミとして取っておいたものを見て、八角やシナモンって五香粉の原料とカブっているなぁ と気付き、要らぬドケチ精神を発揮させて、煮出して飲んでみることにした。お茶っぽい色も出て風味もよい。

また一つ節約術が増えてしまった。

 

*1:Paco Park 近くの Assad Mini Mart にて購入

*2:今 改めて動画なんかを見てみると、ミルクと砂糖を結構入れて飲むのかも。パッケージにはそんなことは書いてなかったけど

フィリピンの隠れた暗部、初等教育とその内実

今週のお題サボる」

 

 

サボる。

それは、平常の行程が継続的に編成され進んでいくなかに於いて、一時的にその業務を意図的に中止し、職場なり何なりから当人に与えられている責務を放棄する、といった場合に用いられる語句なのだと思いますが、全て”サボリ”で構成されている、そういった場合も、それを”サボり”呼ぶのでしょうか――。

 

 

 

『シリーズ フィリピンの闇』、今回は小学校での教育態勢を書き綴っていこうと思います。  ( 闇度 :★★★★★ ビャーーッ!! )

 

 

5年前、初めてフィリピンの小学校を目にしたときは大変驚きました。子供の多さやその賑やかさもさることながら、日本の小学校と一番違うのは学校の内外にお菓子や軽食の売店が数多くあること。

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写真は文化祭のときではありません。学校の向かいの民家は、もれなく駄菓子屋を経営し、朝・昼・下校の時間は児童でごった返します。そこにアイスやマシュマロを売る屋台も加わり、さらに風船やおもちゃが当たるクジ屋、果てはヤドカリを売るおじさんまで来て、本当に祭りのような有様、こんなのなら学校に行くのが楽しくて仕方ないでしょう。

当時、私は 町の防災・レスキューチームのチーフであるフィリピン人男性と行動を共にしていたので、彼が地震津波のときの避難の講習などで小学校に出入りしていたので、校長先生らとも知り合いになり、私も顔パスで学内に入れるようになりました。休み時間の校庭は子供たちの騒ぎ声でいっぱいになるのですが、見て回っていると、どうも授業中もかなりガヤついているようです。私に気付いた3年生のクラスの担任の先生が、ちょうど国語(タガログ語)の時間だったこともあり、授業に参加してもいいよ、と言ってくれたので、飛び入りで授業を受けることになりました(日本じゃ、ちょっと有り得ない展開ですね)。クラスの子たちは、外国人がクラスメイトになった、と大はしゃぎしてしまい、私はそれを宥めるのに一苦労でした。先生は時折、私のために単語を英語で言い換えてくれました。ちなみに、児童のほとんどはイロカノ話者なので、イロカノ語をタガログ語でどう言うか、が「国語」の授業になります。

そのころには、私は校長先生らから非公式、口頭ではあったものの校内での”営業許可”をもらっていたので、学校近くの自分の家でドライカレーやお好み焼きを作り昼休みの間にそれを売っては、昼過ぎの1〜2時間をタガログ語の勉強 兼 学級の参与観察とさせて頂いたのでした。

さて、その様子なのですが――、女の子は隣りの子とのおしゃべりに夢中で、男の子は立ち歩き、終いには小競り合いを始めたりしています。先生は教鞭というか短めの竹の棒を持っていて、それで教卓をバシバシ叩き静粛にするよう声を上げます。授業はなかなか進みません。まさに「学級崩壊」と言い表されるような状態でした。担任の先生曰く、親の躾がなっておらず、手を焼いている。棒で子供を叩くとポリス行きになってしまう、とのこと。
こんなこともありました。お腹が空いたということなのか、授業中にも拘らず私の所へドライカレーを買いに来る子も…。さすがにこれはマズく、ママヤ(あとで)と諭すのですが、先生がNo problemとのご発言…。他の子も続き順番待ちとなってサーブ。これじゃあ授業の体を成してません。
他の学級も見て回りましたが、高学年のクラスは多少マシであるものの、児童全員が集中して先生の話を聞く、といった様子は見られず、どこも似たりよったり。全てのクラスがこのような状態であるというなら、学級崩壊ではなく、「学校崩壊」です。もう滅茶苦茶だ。


話は逸れますが、オーストラリアの赤十字の出資で手洗い場を新しく設ける工事が行われ、手の洗い方、さらには歯の磨き方がペイントで描かれましたが、その後も熱心にそれらを励行している児童の姿を見た記憶はありません。その工事が終わると同じく赤十字の資金で「低身長・低体重」の学童に向けて、昼食の炊き出しというのが始まりました。「対象となった」児童の一覧が資料として作られ、始めのうちは手洗い場に併設された机のあるスペースで食べさせていたのでしょうが、食べに来ない子、帰って自分の家で昼食にする子、そもそも学校に来ていない子などまちまちであるためか、対象以外の子も食べているようでした。これでいいんですか、赤十字さん…。私がそれ以上に気になったのは、昼前の2、3時間の調理に教員1、2名が割かれている、ということです。それで肝心な学習の方が疎かになってたりはしないんだろうな…。保護者のお母さん3、4人が手伝っていますが、買い出しや調理の主導は先生方のはずで加わらないわけにはいきません。
そうして出来上がったものを(私なら掲示されている同じ予算で もうちょっと違ったものを作るけどなぁ…、と思いながら)見ていると、私も食べていいよとのこと。さすがにそれはダメでしょ、と遠慮しましたが、ワラン・プロブレマ、とのこと…。メニューは豚肉のシニガンスープで、村の子供たちと同席しておいしく頂きましたが、多くの子が野菜を残すのです。食べ物を残したり捨てたりするのは私の信条に反するので、文句を言いながらおかずやご飯のお椀を貰っているとどんどん増えてしまい、すっかり食べ過ぎになっていしまいました。欠食児童にバランスの取れた食事を、との趣旨のはずですが、これでいいんですか、赤十字さん…。

 

それからしばらくして、フィリピンでのターニングポイントとも言えるある事件が起きます。それをきっかけに何か行動を起こした「転機」というやつではないのですが、フィリピン社会の見方が変わったというか…、いや、薄々は気付いていたのかもしれませんが、現実として突き付けられたというか。

小学校の向かいのネットショップで、近所の中学生を少し話をしているところでした。小学校を卒業して、私立の中学校に通っているこの子は算数はどれくらいできるのかな、と ふと思い、まず分数は、と ”⅓+⅓”とノートに書いて、差し向けてみました。彼はBasic、と胸を張って私の手からペンを取ると、余裕の表情で記入を始めました。流石に中学生ともなると簡単か、とノートを受け取ると、そこに書かれていた数字は「8」。

え…? 何処からその「8」という数字が出てきたのですか…。
どうやら式に出てきている全ての数字を「プラス」したよう…。慌てて私は正しい解答を、説明も加えながら彼に言うのですが、英語は得意だけど数学は苦手なんだ、とのこと…。もしや、と思ってその時 店に居た小学生〜高校生に訊いて回るも、正答できた子は一人もおらず…。ガツンと頭を殴られたような感じがしました。

一見普通に見えるこの子たちは、こんな貧しい教育しか受けてきていないんだ。 もう少しで泣きそうになりました。
店の前に二人のご婦人が通りかかり、縋るような気持ちで同じ分数の問題を出してみましたが、わからない、とのことでした。高校生になっても成人しても分数がわからない。

予想以上にとんでもない所に来てしまった、どうしよう。今度は自分の身を案じて泣きたくなりました。日本の生活を手放すということはこういうことです。分数すらわからない人たちの中に身を置き、暮らしていく。
「進捗どう?」「⅓くらいっすかね〜」なんていうちょっとした会話もできず、給料日まではあと✗日あるから、この調子で行くと…という勘定もできず、宝クジの当選確率もわからないまま 少ない持ち金を毎週つぎ込む。そうした人たちと顔を突き合わせて暮らしていく。

 

 

分数というのは、小学校での算数教育の要であるともいえます。
それまでに習った四則演算が自由に扱えるようになって初めてその概念や計算方法を理解できるからです。また一方で”分数”は中学以降の、比や確率や直線の傾きなどにも繋がっていており、数学の基礎であるともいえるでしょう。
分数自体はさほど難しいとは思いませんが、そこまでの小学校の初等算数というのは、ある程度の忍耐を要します。私も九九を覚えるのが苦手で、百マス計算というのでしょうか、ランダムに配置された表上と表左の数字の掛け算をさせられて、ストップウォッチでそれを競わせるものだから苦痛で仕方なかった覚えがありまともあれ私は小学校の課程を修了し、一方でフィリピンの子供たちは中学生になっても分数ができない。いったいどこでそうした状況が生まれているのか。

すでに分数の単元のあるG5のクラスに改めてお邪魔して、一緒に授業を受けてみることにしました。
教壇に立つのは、学校No.2、教頭先生くらいに相当すると思われる初老のお方。男性の教員はこの一人だけで、校長先生を含め、あとは全員女性です。
そのG5のクラスは帯分数の加算減算の練習問題を解いているところでした。果たして、教える方が悪いのか、それとも教わる方が悪いのか。この一時間で見極めるつもりで授業に臨みます。
板書された式を、わかる子が手を挙げて解いていきます。なるほど、できる子はできる。すると日常的に分数を使わないので、社会人になる頃にはすっかり忘れてしまう、というわけのようです。私だって三角比や二次関数なんてもう忘却の彼方だものな。
さて、一通り答え合わせが終わったところで、先生が答えが合ってた子は――、と挙手をさせます。学級全体の1/4ほどの子が手を挙げました。もうちょっと多くてもいいけど、悪くもない数でしょうか。先生は教壇を降り児童の机の間を歩いていきます。わからなかった子にどこで躓いたか訊いて回って…ないです。
児童と二言三言 交わしてオワリ。わかってない子をフォローするんじゃないんですか…。
近くの席の2、3人の子が知り合いだったので、どういったふうに授業を受けているのかと見てみると、分数は全くわからず、式とその答えをノートに書き写しているだけ…。そんなんで次の問題が解けるようになるんですかね…。
教える方・教わる方、どちらが悪いか。

答え――「両方」。



まぁこのようにして、掛け算すら怪しく、分数もできないという子が毎年大量に小学校を卒業していきます(分数もわからない子が、中学校で何を勉強し、理解できるというのでしょうね…。数学の時間はずっと写経をするのでしょうか?)。
分数もできない子が、というのはちょっと違います。分数を理解するだけの、努力をしたことのない、または忍耐力がないという子がどんどん卒業していくということです。そうした人たちの集合体である「社会」がどのようなものになるか。それは簡単に想像がつきますね。
よく言われるフィリピン人の国民性、いい加減、飽きっぽい、計画性がない(結果として嘘をつく)といったことは、全てこの「分数すらわからない」というところから出発し、そしてまた、帰結しているのです。

 

ここまで日本人の目線で学校教育や初等算数のことを書いてきましたが、フィリピン人は、分数もろくにわからないといったことをどう思っているのでしょうか。

みなさんは、もし自分の子が中学生にもなって掛け算・割り算もできないということが発覚したらするならどうしますか? 大慌てでノートを広げ自身が鉛筆を握って自ら教えることでしょう。しかし、高校を卒業しても三角比がわからないといった場合はどうでしょう。学生時代は自分も数学が苦手だったからナァ…、で済んでしまうのではないでしょうか。三角関数は測量会社か電力会社にでも入らない限り使わないと思うのですが、フィリピンでは、それと同じ具合で四則演算を超える難しい数学は必要でないと観念されているのです。

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コロナ前、ジープニーに乗っての村からの登校。学校は勉強する所ではないので、みんな行くのが楽しみ

 


では市場の商人はどうでしょうか。量りには1/2や1/4といった分数が使われています。しかしそれらはハーフやクウォーターとして理解されているはずで、1/5とか3/7とかといった、緻密な計算は客も店も求めていない、つまり分数といった概念一式が、実社会としても特段必要とされていない、そんな社会なのです。

 

G5のクラスではこんなこともありました。一人の子がお腹でも痛いのか何度でもトイレに入っていきます。私の見る限り、フィリピンの小学校ではトイレは教室ごとに設けられており、授業中でももちろん利用は自由です。日本ではトイレはなるべく休み時間に済ませておいて授業中は極力席を立たないように、ということになっています。しかし考えてみれば、なぜこのような決まりになっているのでしょう。排泄は個人の、しかも生理的な欲求であり、学校での集団行動とは全く関係がありません。
本の学校で子どもたちが学ぶのは、不条理に見えるルールでも、我慢してそれに従わなければならないときがたくさんある、ということだったのではないかと今振り返れば思います。
一方、フィリピンではどうでしょうか。校庭や教室にはゴミ箱が2つセットで置かれています。落ち葉や生ゴミなど生物が分解できるものと、それ以外のものといったことで別れています。しかし実際はごちゃごちゃ。校門の近くには鉄・ペットボトル・瓶の分別回収カゴもありますがこちらも混ぜこぜ。子供たちは、「ルールはあるけど守らなくてもいい」ということを学習します。

先のトイレの話は一例に過ぎません。
日本では様々な場面で、スケールは違えど、似たようなかたちをした「不条理に思えるけれど従わなければならないルール」があり、みんな それに直面してきた、そして、直面していく、のではないでしょうか。

それが嫌なら随分前に書き記したように日本を出るという選択肢を取るしかないのです。
保険を使って安価で質の高い医療を受けられる。お店へ行けば客として客らしく扱ってくれる。友人は誠実できちんと約束を守ってくれる。法律がその通りに運用される。――そうした当たり前すぎる一連のものを全て捨て去るということになるのでしょうが。

 

あとはそれをもってしても余りある幸せを、フィリピンで得られるかどうか、といったところでしょうか。

 

 

 

 

所持金残り:4205ペソ と3万円
(帰国旅費・ビザ更新料の取り置き16万円を除く)
予想滞在期限:2022年4月頃